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温暖で風光明媚、豊かな自然に培われた、柔らかな県民性と、アジアや西洋から異文化を受け入れ吸収しながら、伝統や風習に融合してきた大分県。
大分市の中心に大分のユニークな文化風土にちなんだ「出会いと五感のミュージアム」が生まれました。
設計は、世界的に活躍する建築家 坂 茂(ばん しげる)さん。透明度の高い、フレキシブルで可変性に富んだ爽快な空間は、まさしく「常に変化しながら成長するミュージアム」。
世界中、日本中の美術の遺産にアプローチしながら、大分が誇る作家や伝統文化を紹介して育て、異質なもの同士、グローバルでローカル、伝統的でモダン、コンテンポラリーな、出会いの場をつくります。
アートの広がりと無限のバイタリティーを、異ジャンルの交わりによって、さらには、自然へのイマジネーションと私どもの肉体、生活に根ざしたリテラシーで、五感へと訴えます。
21世紀のための、まったく新しい、唯一無二の芸術体験と創造の場、「大分世界中心主義」を皆さんとともにつくっていきます。
1394年の築城以来、600年もの間この町を見守ってきた杵築城。模擬天守とはいえ、城跡にそびえる三層の天守閣は在りし日のこの城の姿を偲ばせる。室町時代初期、木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれたこの城は、北は高山川、東は守江湾といった天然の要害に囲まれた城であった。その後の天災、震災などで城も場所や形を変えながら、城主もまた前田、杉原、細川氏と入れ替わり、その後の小笠原氏、そして松平氏を最後に江戸の時代も終わりを告げ、杵築城は新たな城主を迎えることなく今に続く。現存するのは一部石垣など。現在では山上が城山公園として整備され一般にも開放されていて、市内のあちこちで発見された国東塔など貴重な石造物を野外展示している石造物公園もある。築城当時“木付”と命名されながら幕府朱印状に誤って“杵”と記されて以来「杵築」に。また島津の猛攻撃に2か月も耐えたことから別名「勝山城」とも呼ばれている。
丹生島城・亀城とも呼ばれていた城跡です。キリシタン大名として有名な大友宗麟の居城だったため、石垣にはアルファベットの様な文字が刻まれ、城内には礼拝所が、城下にはキリシタンの修練所があったそうです。築城当時は丹生島と呼ばれる孤島上の城郭で、周囲の海が天然の要害となり、堅固な守りを誇っていました。大友氏以降、福原直高、太田一吉が城主を務めたのち、慶長5年(1600年)からは、美濃から入封した稲葉氏が廃藩置県まで15代にわたってこの城を居城とし臼杵藩の支配にあたっていました。廃藩置県後、明治6年(1873年)に臼杵城は廃城と決定され取り壊されました。その後、本丸、二の丸は公園地に指定され、現在は2つの櫓と書院の庭園の一部、石垣などを残すだけで、臼杵公園として市民の憩いの場となっています。春はサクラの名所としても有名です。
■臼杵石仏(磨崖仏)うすきせきぶつ(まがいぶつ)
古園石仏大日如来像に代表される臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。その規模と、数量において、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、平成7年6月15日には磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定されました。その数は、60余体にもおよび、このうち59体が国宝となりました。石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、同第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられました。それぞれに、傑作秀作ぞろいであり、表情豊かな御仏の姿は、みる者の心にやすらぎをあたえてくれます。また、平成29年3月には古園石仏郡の手前右側の岩壁に刻まれた2体の「金剛力士立像」が、国宝に追加指定されるという内定が出されました。これにより、臼杵石仏(磨崖仏)は合計で61体が国宝となります。
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